綱渡り

最近、将来について選択する、そして自分のとった選択肢に自分も選んでもらえるように知らない誰かの判断軸に自分を沿わせる、という不思議なプロセスが嫌でも覆いかかってくる。

私は「受験」という選択肢を取ったことによって自分なりの自由でいるために有効な手段を選んだ気がしているし、それに対してできる限りの努力はするつもりでいる。

きっとそれは私の選択ではない。私の環境が形成した選択だ。

"レール"とか"エリート思想"という単語はよく聞くが、自分の人生はまさに、という感じ。

だからといって私はその過程の中で見つかっている面白さもある(というか、勉強したい)から、自惚れずにそれを自覚していれば今はいい。あとは、他人の選択肢を見下すのが一番だめ。それさえしていなければ。

 

けれど、毎日かなり怖い。

自分の将来の結果が怖いのではなく、その結果に対する不安に駆られるあまりに大切なものを見失い、自分が最も嫌う何かを体現する人になっていく感覚が本当に泣きそうになるぐらい怖い。

というより、もともと立場からして自分はそれを体現しているのだと思う。ただ、無自覚になることを恐れているのかもしれない。

 

必死になることはあらゆる場所で称賛される。実際、必死になれることはかっこいいと思うし、良いことだと思う場面も沢山ある。

それでも、プライドにしがみつくあまりに目の前にある物を手放してしまうこと、その中で優しさや謙虚さを忘れること、現在進行形でその過程を周りに見ながら自分も再現している気がして、「必死さ」に対する嫌悪感を抱いてしまう。

あなたの目指している何かは本当に好きなものですか?それとも、落ちこぼれてはいけない、成功にしか価値はない、という呪いのような束縛ですか?

忘れてしまいそうで、本当に嫌だ。

嫌いな構造を変えるために嫌いな構造に飛び込んでいくという矛盾でしかない行為、とーっても大きい海の波に逆らって泳ごうとする金魚みたいな気持ち。

美味しいご飯を食べていても、放課後友達と笑いながら帰っていても、将来に対する不安と、それより10回りぐらい大きいその不安自体に対する恐怖感が頭の上にゆらゆら浮いている。

 

小学生の時、毎年サーカス団員が1週間学校に滞在して体育の時間にサーカス芸を教えてくれ、週の終わりの金曜日に最高学年の生徒がサーカスショーを行う、という行事があった。

その時に知ったけれど、綱渡りは綱が低くても案外怖い。

別のところをチラ見したりしてバランスを失った瞬間、体が大きく片側に傾いて落ちそうになる。

そんな、自分はいつでも傾いて落ちてしまう、少しでも気を抜いたらダメだ、という恐怖に追われているような感覚で毎日を生きている。

世の中の一部しか見えない自分から逃れたい、人を傷つけて嫌われたくない、というやっぱりエゴから来ているそのバランス感を、本当のところ、今の自分がどれぐらい守れているのかはわからない。多分全く守れていないのだろう。

実際、スーツケースに全ての持ち物を入れて暮らすおばあちゃんが近所のコンビニで無料のシロップとか牛乳の小さいパケット(っていうの?)を腕から溢れそうなぐらい持ち出す姿を見ると、ああ、なんか嫌だ、と自分の人生には全く影響がないはずなのに不快感を感じてしまう。

不快感に気付いている分まだましなのかもしれないけれど、そのおばあちゃんは何も悪いことはしていないはずだ。でも、どうしても「品の良さ」「経済力」などを人の判断軸として大切にする私の家庭の価値観に対してもがくことはできても自由になることは一生ないのだろう、ということの証拠でしかなくて、少し悲しくなる。

 

「この1年で必死さに飲まれて大事なものを失う気がして怖い」と話した時に、「もえなら大丈夫な気がするけどなぁ」と何気なく言ってくれた友達がいた。何を根拠に言ったのかはわからないけど、嬉しかった。

どうしたって怖い。怖いけど、怖くなくなった瞬間、自分はダメになっているんだろうと思う。