目的

今、なんとなく知ってる人にあなたの文章を読まれるのと裸で見られるのとどっちが良いですか、と言われたらちょっと悩むと思う。思考を自己開示したくない理由は単純で、人を傷つけたり怒られたりするのが嫌だから。(要するに大半はエゴ)あとは、自分の書く文章がそこまで好きじゃない。

それでもこうして人に見られるかもしれない文章を書いているのは理由がある。

 

自分は「違う人なんて所詮分かり合えない」と思って、ずっとどこか諦めてる部分がある。そのせいか知らないけど、自分の弱さを隠して傷つかないようにするのはそれなりに得意だとも自負している。(ただこれについて補足すると、結局自分が寂しいだけだし別に良いことではないと思う)

 

ここで問題が発生する。

 

問題1) コミュニケーション

最近、「微妙に知っている人」と喋ったり一緒にお仕事したりすることが多い。ある程度のラベル(年齢、性別、所属等)はお互い認識していても、相手の好きな映画とか普段考えてることとか大切にしている物はそこまで分からない訳で、面白い関係性だなーといつも思う。

 

ただ、人は根本的に価値観が一致しないからこそ、ある程度の自己開示もしくはそれに向けた努力がないと関わりはそこまで上手くいかない。お互い何も弱さを見せない、思考を共有しない状態だと、仮に上手く行っても「微妙」な関わりで終わる。

 

傷つく危険性を高めるぐらいなら別にそれでもいい、と思う反面、どうせならできる自己開示をした方がお互い気を抜いて省エネでいられるんじゃないか、と最近思うようになった。(あまりにもすれ違いが多い)

 

現に、相手の人がTwitterで色々発信してたりNoteを書いていて私がそれを読んだことがある人の方がこっちとしては圧倒的に関わりやすい。

別に人と無理に仲良くする必要はないけれど、どうせ関わるなら勝手に遠ざけていても迷惑なのかもしれない。

 

問題2) 寂しい

誰も自分が考えてることを知らない、というのはなんとなく寂しい。

無駄に強いと思われて遠ざけられちゃったり、相手は知らずに相手の書く文章にこっちが一方的に共感していたり、「この人にはこの自分も見てほしいのに」的な欲望が生まれてきたり。

要するに、少しでも理解されたい。(承認要求ともうちょっと健康的な関係性を築けるようになりたいですね)

 

自分の考えなんて所詮周りの人の考えにちょびっと見た映画とか読んだ文章の視点を取り組んだ表面的なものだと思っているし、別に特別な価値を見出している訳じゃない。それでも、ある程度自分なりの経験や視点を組み込んで話にフレーミングをしている訳で、自分が文章にしている時点で考えは「自分のもの」という見方もある。

 

仮に自分の文章を読むことに時間を費やしてくれる人がいたとして、きっかけは共通の話題が見つかることでも単に「こんなことを見てるのか」と思われることでもいいけど少しだけこの謎の孤独感を包み込めるのかも、という利己的な希望を持ってここに座っている。

 

1と2を踏まえて

じゃあ発信すれば?という結論に至る訳だけれど、皮肉なことにまたここでも問題が起きる。やっぱり、どう受け取られるかなんて分からないし人に文章を読まれるのは怖い。

 

それでも周りの人に自分を理解して欲しい訳なので、全てが矛盾している。(人間なんてそんなものだと思う、知らんけど)

 

とりあえず今は、この何でもないブログサイトのリンクをどこかにそっと貼って「もしかしたら誰かに見られてるのかもしれない独り言」ぐらいの距離感で行こうと思う。そういうことです。