イヤホン

小さい頃から電車の音が大好きだ。

がたんごとん、と発車してから少しずつ車輪の動きが速くなっていく音も好きだけれど、周りのテンポ良い雑談や外からの雑音、窓から入ってくる風が混じった音が一番好き。

今この瞬間、この場の全ての音が偶然居合わせて自分に聞こえている、という感覚が心地良い。偶然を受け入れることは、自分には変えられないものがあると認めることであり、力を抜くことでもある。

中学に入ってイヤホンを買ってもらってから、あの低くて柔らかい音を聞かなくなった気がする。

イヤホンから入ってくる音は全て自分が選択した曲や情報であり、外の世界から耳を塞ぐことで自分だけの閉鎖された空間が出来上がる。好きな曲を聴くことで幸せな気持ちになる日や、疲れ切った満員電車の中ノイズなんて楽しめない日も沢山ある。

それでも、やっぱり偶然聞こえてくる会話や雑音にしかない愛おしさがある、と思っている。

だから、たまにはイヤホンを外して電車に乗ったりする。

The world is filled with trade-offs

「壁を越えることが、いろいろな意味で暴力になりうることを、私はもっと真剣に考えるべきだった。しかしまた、壁を超えなければ...私たちは、私たちを守る壁の外側で暮らす人々と、永遠に出会わないまま生きていくことになってしまう。ほんとうに、いまだにどうしていいかわからない。」(断片的なものの社会学

綱渡り

最近、将来について選択する、そして自分のとった選択肢に自分も選んでもらえるように知らない誰かの判断軸に自分を沿わせる、という不思議なプロセスが嫌でも覆いかかってくる。

私は「受験」という選択肢を取ったことによって自分なりの自由でいるために有効な手段を選んだ気がしているし、それに対してできる限りの努力はするつもりでいる。

きっとそれは私の選択ではない。私の環境が形成した選択だ。

"レール"とか"エリート思想"という単語はよく聞くが、自分の人生はまさに、という感じ。

だからといって私はその過程の中で見つかっている面白さもある(というか、勉強したい)から、自惚れずにそれを自覚していれば今はいい。あとは、他人の選択肢を見下すのが一番だめ。それさえしていなければ。

 

けれど、毎日かなり怖い。

自分の将来の結果が怖いのではなく、その結果に対する不安に駆られるあまりに大切なものを見失い、自分が最も嫌う何かを体現する人になっていく感覚が本当に泣きそうになるぐらい怖い。

というより、もともと立場からして自分はそれを体現しているのだと思う。ただ、無自覚になることを恐れているのかもしれない。

 

必死になることはあらゆる場所で称賛される。実際、必死になれることはかっこいいと思うし、良いことだと思う場面も沢山ある。

それでも、プライドにしがみつくあまりに目の前にある物を手放してしまうこと、その中で優しさや謙虚さを忘れること、現在進行形でその過程を周りに見ながら自分も再現している気がして、「必死さ」に対する嫌悪感を抱いてしまう。

あなたの目指している何かは本当に好きなものですか?それとも、落ちこぼれてはいけない、成功にしか価値はない、という呪いのような束縛ですか?

忘れてしまいそうで、本当に嫌だ。

嫌いな構造を変えるために嫌いな構造に飛び込んでいくという矛盾でしかない行為、とーっても大きい海の波に逆らって泳ごうとする金魚みたいな気持ち。

美味しいご飯を食べていても、放課後友達と笑いながら帰っていても、将来に対する不安と、それより10回りぐらい大きいその不安自体に対する恐怖感が頭の上にゆらゆら浮いている。

 

小学生の時、毎年サーカス団員が1週間学校に滞在して体育の時間にサーカス芸を教えてくれ、週の終わりの金曜日に最高学年の生徒がサーカスショーを行う、という行事があった。

その時に知ったけれど、綱渡りは綱が低くても案外怖い。

別のところをチラ見したりしてバランスを失った瞬間、体が大きく片側に傾いて落ちそうになる。

そんな、自分はいつでも傾いて落ちてしまう、少しでも気を抜いたらダメだ、という恐怖に追われているような感覚で毎日を生きている。

世の中の一部しか見えない自分から逃れたい、人を傷つけて嫌われたくない、というやっぱりエゴから来ているそのバランス感を、本当のところ、今の自分がどれぐらい守れているのかはわからない。多分全く守れていないのだろう。

実際、スーツケースに全ての持ち物を入れて暮らすおばあちゃんが近所のコンビニで無料のシロップとか牛乳の小さいパケット(っていうの?)を腕から溢れそうなぐらい持ち出す姿を見ると、ああ、なんか嫌だ、と自分の人生には全く影響がないはずなのに不快感を感じてしまう。

不快感に気付いている分まだましなのかもしれないけれど、そのおばあちゃんは何も悪いことはしていないはずだ。でも、どうしても「品の良さ」「経済力」などを人の判断軸として大切にする私の家庭の価値観に対してもがくことはできても自由になることは一生ないのだろう、ということの証拠でしかなくて、少し悲しくなる。

 

「この1年で必死さに飲まれて大事なものを失う気がして怖い」と話した時に、「もえなら大丈夫な気がするけどなぁ」と何気なく言ってくれた友達がいた。何を根拠に言ったのかはわからないけど、嬉しかった。

どうしたって怖い。怖いけど、怖くなくなった瞬間、自分はダメになっているんだろうと思う。

色眼鏡😎

冬休み、謎の焦燥感半分、同級生の多くが夜遅くまで行く「塾」という場に対する好奇心半分で親に頼み、ありがたいことに冬季講習に行かせてもらった。

初日、池袋駅で存分迷子になってから(出口ありすぎ)人生で初めて"大手塾"と呼ばれる場所に踏み込む。教室に上がるエレベーターに乗ると、知らない先生に笑顔で話しかけられた。

「文系さん?」

文系というフレーズがさん付けされるのを初めて聞いたこと、自分のことを明確に「文系さん」と認識したことがなかったことから一瞬困惑してしまった。なんとか頭を追いつかせてはい文系さんです、と頷く。

「そうか、頑張ってねー!」

先生は満面の笑顔で、手を振りながら4階で降りていく。なんだか可笑しくて、マスクの下でくすっと笑ってしまった。

彼にとって、私は永遠に「文系さん」なのだ。頑張ってね、とは多分教室を探すの頑張ってね、ではなく大学受験頑張ってね、なのだろう。「塾」という高校生の大学受験対策、という共通項で人が集まる場であることを考えると当たり前だ。目の前にいる初対面の相手を「文系」「理系」という基準で判断するのもわかる。

それでも、12月27日の池袋駅周辺、建物を一歩踏み出て道を歩く誰かに「頑張ってね」と言ったらそれはどんな意味合いを持つのだろうか。不信感を抱かれたり、嫌味だと思われてしまうのかもしれない。ましてや、「文系さん?」なんて聞いたらこっちが心配されるのだろう。

その当たり前の事実が、何かどうしようもなく可笑しかった。


最近、美大生や制作活動に興味を持つ若者が集う無料開放の自習室によく遊びに行く。

通信高校に通うミュージシャンや、丸メガネをかけた写真専攻の大学生が机を囲んで座る、「カルチャー」という単語から連想されそうな光景だ。私は毎回学校帰りに制服で行って、自分浮いてるなーと思って楽しんでいる。

彼らはそれぞれ自分の書く文章や、撮る写真の価値が自分自身の価値であるように話す。周りの人の中での自分とか、それでも守りたい自分がどのように作品に生きているのかとか。

私の勝手な感想だけれど、彼らは「自分」というものに周りとは違う特異性と価値を見出し、その上で人に愛されることにどこか取り憑かれているのだろう、と思う。(みんなある程度そうだろうけど、アウトプット重視なのが面白い)

彼らにとって「君たちが目指すべき東大京大一橋はねー」とか熱く語っている塾講師の意見はどうでもいいのかもしれないし、守るに値するものではないんだろう、とか話を聞いていて考える。むしろ、この場ではそんな学歴社会的な評価を覆していくことに「良さ」の軸を置いているのかもしれない。

(それと逆に、塾講師の言葉にうんうんと頷く高校生にとって、「自分の作るものの価値」みたいな話はほとんどの場合どうでもいいのだろう)

芸術高校でもなんでもない私は普段全く見ない世界だし、ついていけない時もある。

それでも、塾のエレベーターで感じた同じくすぐったい可笑しさと共に何か心地の良さを感じる。

自習室にいる彼らに「頑張ってね」って言ったら、何のことだと思うんだろう。制作?自己表現?その部屋の中にいる時の自分は、「何さん」なんだろうか。

 

古本屋をひっそり運営する老人、好きな人に好かれたい高校生、砂で絵を描く社会人、カレーを極める店長。そんな人たちは、大切にしたいものが同じな訳がない。

それぞれの人と場に当たり前が存在し、守るべきものがある。家みたいだなあと思う。

社会の色々な集団はそれぞれ違う色で違う形の家に住んでいて、その家に入れば、意識的であろうとなかろうと何かしらの色眼鏡がかけられる。判断基準だったり、取る選択肢だったり、大切にするものだったり。

自分の家にいれば家の中のことしかわからないし、近所の家が窓からちょっと見えたりしても中に何があるのか、何が起きているのかは全くわからない。他の家に遊びに行ったりしたら、戸惑うことも多いだろう。

何が良いとか悪いとかいう話じゃない。ただ単に見ている景色が違う。

もちろん、ほとんどの人はいくつか家を行き渡って色眼鏡(サングラスとかもあるのかな)を複数手に入れて生きているだろうし、一生とにかく走り回って試しまくる人もいるだろうし、必死に今の自分の眼鏡を取ろう、外に出ようともがいている人もいるのだろう。人がどう世界を見ているのか、外からはわからない。(もしかしたら塾講師も深夜はDJしてるのかもね)

別に、何でもいいと今は思う。

個人的に、1つでも自分以外の家に行ってみる方が誰かを傷つける可能性は低くなると思う。

でも、生き方としては色々な家に行ってみて価値観の欠片を頭の引き出しに集めていく面白さもあるし、一生自分の家で安心して暮らす幸せもある。

人の家を「汚い」と指差したり、入って行って「これはなんだ」とぐちゃぐちゃに荒らしたりしなければ、好きにすればいいんじゃないかな。

 

*文章だといかにも俯瞰的な視点持ってますみたいな雰囲気出しちゃったけどそうじゃないです、眠いのでその話はまた今度

目的

今、なんとなく知ってる人にあなたの文章を読まれるのと裸で見られるのとどっちが良いですか、と言われたらちょっと悩むと思う。思考を自己開示したくない理由は単純で、人を傷つけたり怒られたりするのが嫌だから。(要するに大半はエゴ)あとは、自分の書く文章がそこまで好きじゃない。

それでもこうして人に見られるかもしれない文章を書いているのは理由がある。

 

自分は「違う人なんて所詮分かり合えない」と思って、ずっとどこか諦めてる部分がある。そのせいか知らないけど、自分の弱さを隠して傷つかないようにするのはそれなりに得意だとも自負している。(ただこれについて補足すると、結局自分が寂しいだけだし別に良いことではないと思う)

 

ここで問題が発生する。

 

問題1) コミュニケーション

最近、「微妙に知っている人」と喋ったり一緒にお仕事したりすることが多い。ある程度のラベル(年齢、性別、所属等)はお互い認識していても、相手の好きな映画とか普段考えてることとか大切にしている物はそこまで分からない訳で、面白い関係性だなーといつも思う。

 

ただ、人は根本的に価値観が一致しないからこそ、ある程度の自己開示もしくはそれに向けた努力がないと関わりはそこまで上手くいかない。お互い何も弱さを見せない、思考を共有しない状態だと、仮に上手く行っても「微妙」な関わりで終わる。

 

傷つく危険性を高めるぐらいなら別にそれでもいい、と思う反面、どうせならできる自己開示をした方がお互い気を抜いて省エネでいられるんじゃないか、と最近思うようになった。(あまりにもすれ違いが多い)

 

現に、相手の人がTwitterで色々発信してたりNoteを書いていて私がそれを読んだことがある人の方がこっちとしては圧倒的に関わりやすい。

別に人と無理に仲良くする必要はないけれど、どうせ関わるなら勝手に遠ざけていても迷惑なのかもしれない。

 

問題2) 寂しい

誰も自分が考えてることを知らない、というのはなんとなく寂しい。

無駄に強いと思われて遠ざけられちゃったり、相手は知らずに相手の書く文章にこっちが一方的に共感していたり、「この人にはこの自分も見てほしいのに」的な欲望が生まれてきたり。

要するに、少しでも理解されたい。(承認要求ともうちょっと健康的な関係性を築けるようになりたいですね)

 

自分の考えなんて所詮周りの人の考えにちょびっと見た映画とか読んだ文章の視点を取り組んだ表面的なものだと思っているし、別に特別な価値を見出している訳じゃない。それでも、ある程度自分なりの経験や視点を組み込んで話にフレーミングをしている訳で、自分が文章にしている時点で考えは「自分のもの」という見方もある。

 

仮に自分の文章を読むことに時間を費やしてくれる人がいたとして、きっかけは共通の話題が見つかることでも単に「こんなことを見てるのか」と思われることでもいいけど少しだけこの謎の孤独感を包み込めるのかも、という利己的な希望を持ってここに座っている。

 

1と2を踏まえて

じゃあ発信すれば?という結論に至る訳だけれど、皮肉なことにまたここでも問題が起きる。やっぱり、どう受け取られるかなんて分からないし人に文章を読まれるのは怖い。

 

それでも周りの人に自分を理解して欲しい訳なので、全てが矛盾している。(人間なんてそんなものだと思う、知らんけど)

 

とりあえず今は、この何でもないブログサイトのリンクをどこかにそっと貼って「もしかしたら誰かに見られてるのかもしれない独り言」ぐらいの距離感で行こうと思う。そういうことです。